こんにちは、名古屋大学自動車部です。
私たちが普段車で走っている道路は、古くから使われていた道に舗装や拡幅などの改良がなされ、現在も車道として利用されているものから、行政等による計画に基づいて新たに建設されたものまでそのルーツは様々です。
特に第二次世界大戦後、それまで欧米諸国に比べて著しく遅れていた日本の道路整備は、高速自動車国道をはじめとした自動車専用道路を頂点に、一般国道から都道府県道、市区町村道に至るまで、新規建設や既存道の改良及び舗装が急速にそして全国的に進められました。
そしてこのことが日本のモータリゼーションを進展させ、今日の車社会の基礎となっています。
その一方で計画された道路の中には、様々な理由により変更されたもの、あるいは計画自体が中止になってしまったものも少なくありません。
今コラムではこのような計画が変更または事実上中止された道路について、名古屋大学周辺のものを取り上げて紹介します。
名古屋高速2号東山線は、名古屋駅近くの新洲崎JCTを起点に東へ向かい、名古屋都心から概ね10~15km圏を結ぶ名古屋第二環状自動車道との交点である高針JCTに至る、総延長10.3kmの路線です。
本道は、名古屋市及びその周辺に1環状道路と6放射道路、総延長81.2kmの路線を持つ都市高速道路名古屋高速のうちの1路線で、2号東山線はこのうち名古屋都心と市内東部地域を結ぶ役割を担っています。
起点の新洲崎JCT付近から3kmほどは、名古屋市内に2本ある100m道路のうちの1つである若宮大通の上を高架で通り、春岡出入口付近から先は掘割区間となります。
掘割とは、道路を周辺よりも低く掘り下げた場所に建設するもので、必然的に他の道路などとは立体交差となることから渋滞を回避する目的や、特に都市部では高架道路による日陰問題や騒音問題を避ける目的でこの手法が用いられることがあります。
掘割で東へ進んだ2号東山線は名古屋大学付近で東山トンネルに入り、高針JCT手前まで地下区間となっています。
このように両端で他の自動車専用道路と接続し、名古屋市内の東西方向の主要幹線道路として重要な2号東山線ですが、実は現在の路線は計画当初とは一部異なったものとなっています。
名古屋高速は戦後のモータリゼーションの進展に伴い、徐々に道路渋滞が増加してきた名古屋市内において、今後ますます増えるであろう自動車及び渋滞に対応するために計画され、その基本構想は1970年にまとめられました。
この中で2号東山線は、東名高速道路名古屋ICと名古屋都心を結び、更に東名高速と、新洲崎JCTから西へ進む5号万場線を介して東名阪自動車道~名阪国道~西名阪自動車道と連なる中京圏と京阪神圏を結ぶ大動脈とを連絡することを目的に計画されました。
そして2号東山線の当初の計画は、起点の新洲崎JCTから名古屋大学付近までは現道とは変わりませんが、ここから東は現在よりやや北側を進み、県道60号(通称広小路通、東山通)を高架で通過したのち現在の上社JCTへ到達、直接東名高速名古屋ICへ至るというものでした。
計画当時、すでに100m道路の若宮大通はありましたが、現在の春岡出入口周辺で終わっておりその先には幅の広い道路が存在しませんでした。
そのため計画では、若宮大通以東は住宅密集地を立ち退きによって通過し、広幅員の県道60号へと2号東山線を通すこととしました。
しかし、この計画は変更を余儀なくされます。
それは立ち退きを求められた住民と,2号東山線沿道となる予定の住民らからの猛烈な反対運動のためでした。
2号東山線の計画が動き始めた時期は、ちょうど全国的に4大公害をはじめとした公害問題が注目されており、名古屋市内でも名古屋高速建設反対運動が起こっていました。
加えて名古屋市長にも名古屋高速建設反対派が当選した結果、1976年には名古屋大学付近以東が現在のルートに変更され、更に東側区間の大部分をトンネル部分とすることで、立ち退きをする住民の数と沿道の住民の住環境への影響を最小限にする計画へと変更されました。
当初は1970年代に完成が予定されていた2号東山線は、予定より10年以上経った1986年に新洲崎JCT付近が初めて開通、その後も徐々に東進していきましたが、結局高針JCTに接続したのは2003年のことでした。
このような計画変更を経たため名古屋IC~名古屋都心間の高速路線は、上社JCTと高針JCTの間で名古屋第二環状自動車道を経由する大回りのルートとなりました。
また、前述の名古屋高速に対する反対運動は、2号東山線のルートを変更させただけでなく、建設を延期している間にオイルショックが起こり、これにより社会全体の物価が上昇、名古屋高速全体の建設費の大幅な高騰も招いています。
市道山手植田線の概要
次は一気にローカルな話となります。
前項で取り上げた名古屋大学北側を通る名古屋高速2号東山線とは反対側の、大学南側を通る名古屋市の市道山手植田線という道路です。
市道ですから地元の人でもその名称自体を知る人は少ないと思いますが、通ったことがある人ならば割と記憶に残る道路かと思います。
この市道山手植田線は山手グリーンロード(地図中の緑で示した道路) の八事日赤北交差点から東へ進み、国道153号(地図中の赤で示した道路) との交点の植田一本松交差点へ至る総延長760mの道路として計画されました。
実際にこの道路を走ってみますと、まず国道153号との交点である植田一本松交差点から名古屋の中心の方(西方向)への片側1車線の道路として始まります。
片側1車線の道路にしては幅員が広く、ところどころ中央分離帯が施工されていますが、全体としては特に変わった特徴もないごく普通の道路と言った様子です。
ここから西へ向かって進んでいくと、写真2のようにすぐに丘陵地にぶつかるため上り坂となります。
写真2 丘陵地を登る山手植田線(筆者撮影)
そしてこの坂を上りきり、下りになったところでこの道路の前方に異変が起きます。
今まで、ほぼ直線で進んできた山手植田線は写真3の様に突如右へ進路を変えるのです。
道路が右へ(または左へ)曲がること自体は当たり前のことですが、この道路の問題はその曲がり角がほぼ直角であるということです。
写真3 突如直角カーブとなる山手植田線(筆者撮影)
これは右へカーブするというよりも、むしろ右折すると表現した方が適切なもので、更に走行している車にとっては下り坂のため、しっかりとブレーキングを行わなければ曲がりきることができません。
そのまま道なり(?)に曲がった先の道路(地図中グレーの示した道路)は完全な片側1車線の道路で、沿道には住居が立ち並び2車線分の用地などは確保されていません。
結局、八事日赤北交差点へは地図上でグレーで示した道を通り、更に左折することでようやくたどり着けますが、右への直角カーブ以降は道路の規格も全く違い、無理やり接続しているような印象です。
なお余談ですが、この直角に接続する道の終点近くに我々名古屋大学自動車部の部室があります。
そのため我々自動車部としては、道路が急に進路を右方向(方角でいう北)へ変えたことははむしろ好都合であったりします。
話を戻しますが、一方の本来山手植田線が進むと思われる直進方向(地図上の黒の破線部)には、八事日赤北交差点付近までの間に一応道路は存在しますが、その幅員はセンターラインすらないほどに狭く、また一部は一方通行路となっており、植田一本松交差手より続いてきた区間のような片側2車線分の用地などは全くないといった様子です。
それどころか前述の開通区間の終わりとこの細い道路との間には小さな用水路が流れており、この用水上に橋が架かっていないため直接往来することは不可能な状態となっています。
このように山手植田線は事実上途中で終わっており、その先は全く整備されていないといった様子です。
では、実際の計画はどうなっていたのでしょうか。
まず市道山手植田線の概要ですが、本道は前述のとおり八事日赤北交差点から東へ進み、植田一本松交差点へ至る計画総延長760mの道路です。
なお起点で接続する山手グリーンロードは名古屋市東部を半環状に通る片側2車線の道路で、沿道には名古屋大学をはじめとした大学などの文教施設や住宅街が立地しています。
また山手植田線と終点で接続する国道153号は、名古屋市と長野県中部の塩尻市を結ぶ総延長229kmの国道で、途中長野県飯田市を経由することから特に名古屋市周辺では飯田街道の愛称で呼ばれています。
この153号は愛知県内では名古屋市とトヨタ自動車のお膝元、豊田市という2つの主要都市を結ぶを幹線道路としての役割を持ち、朝夕の通勤通学の時間帯を中心に頻繁に渋滞が発生しています。
山手植田線は計画では幅員40m、すなわち片側2車線で整備されることとなっており、東から伸びてくる同じく片側2車線の国道153号の延長としての機能し、名古屋市東部以東と山手グリーンロードを結ぶ幹線として、また災害拠点病院でもある八事日赤病院(正式名称名古屋第二赤十字病院)への搬送路としての役割を企図して計画されました。
しかし、この道路には問題がありました。
一つは、接続先の八事日赤北交差点の構造です。
この交差点は現状既に十字路となっているため、ここに新たに山手植田線を接続させようとすれば、5差路の不規則交差点とならざるを得ません。
5差路のような多差路交差点は信号整理を前提にしても、十字路に比べてどうしても各方向にさける青信号の時間が少なくなってしまうため、渋滞の原因となるとされています。
八事日赤北交差点では片側2車線の山手グリーンロードにも相当の交通量があるため、そこに豊田市方面からの車が流入すれば、特に朝夕を中心に渋滞が発生することは想像に難くありません。
幹線道路として計画されながら、かえって交通渋滞を引き起こす可能性があるというのは無視できない問題だと考えられます。
二つ目の問題は沿線の環境への影響です。
本道の未開通部分の丘陵地は、戦後以来閑静な住宅地として開発されてきており、一方で多くの自然も残ることから、地元住民からは道路建設による自然破壊や、騒音などによる住環境の悪化を懸念する声が上がりました。
このような問題を抱えることから山手植田線は、延伸等の工事が行われないばかりか、近年で計画の見直し並びに廃止も検討されており、今後本道が計画通り整備される可能性はかなり低いでしょう。
さて、この山手植田線は名古屋市道として計画されていましたが、道路の線形は明らかに国道153号豊田西バイパスの延長です。更にそのまま未開通区間を西へ進めば再び国道153号の山中交差点にぶつかります。
実は国道153号は山中交差点から植田西交差点までの区間は戦前からの、すなわち国道153号の元となった旧来からの飯田街道にほぼ沿ったルートであり、いわば“非バイパス区間”となっています。
ちなみに豊田西バイパス完成以前は、国道153号を植田西交差点で直進した道路が国道153号でした。
したがってここからはあくまで想像にすぎませんが、山手植田線は国道153号の延長、或いはその機能を持つ道路の一部として計画され、山中交差点にて国道153号の現道、或いは山王線(西進し名古屋駅付近へと至る片側2車線の名古屋市道)へと接続する東西幹線としての役割を期待されていたのではないかと考えられます。
そう考えれば八事日赤周辺の、南へ迂回したような国道153号のルートにも説明がつきます。
すなわち国道153号の山中交差点~植田西交差点間は、いずれ建設されるバイパスによって旧道へと降格する予定であったが、そのバイパスが結局建設されなかったため、現在も国道として指定されているということです。
実際には八事日赤北交差点~山中町交差点間には都市計画上の計画道路もないので裏付けはありませんが、このように考えることには一定の合理性があるのではないでしょうか。
以上、ややローカルな話になりましたが、重要な役割を期待され計画された道路でありながら、当初の計画通りには建設されなかった道路をみてきました。
皆さんの周りにも、そのルートや形状がどこか不自然な道路というのは、1つや2つあるのではないでしょうか。
そのような道路は普通に通過している分には特に困ることもなく、また特に気に留めることありません。
しかしそういった道路を少し調べてみると、意外な事実がわかったり、道路に対する見方が変わったりすることもあるかもしれません。
たまには身近な道路について少し調べてみるのもよいのではないでしょうか。
以上
執筆:名古屋大学自動車部